死刑判決 (含・裁判員制度のご案内)

今日読んだ判例時報(←月に3回発行される判例雑誌)に「山口県光市 母子殺害事件 最高裁判決」(※こちら)が掲載されていた(最三小判平18・6・20)。最高裁自身が死刑を言渡したわけではないが、「・・・被告人の罪責は誠に重大であって、特に酌量すべき事情がない限り、死刑の選択をするほかないものといわざるを得ない」との文言から、差戻された高裁では、おそらく極刑が言渡されるのだろう。
2009年から「裁判員制度」が始まる。

一般の市民が死刑判決にも関与することとなるが、おそらく「死刑判決」を読んだことがある人は少ないと思う(僕もあまり読んだことがない..)。以下は2001年6月8日に起きた「大阪教育大学附属池田小学校 児童殺傷事件」(※こちら)の判決の一部です(大阪地判平15・8・28判時1837号13頁)。被告人・宅間守に死刑が言渡された判決です。ちょっと長いけど、是非読んで戴きたい。近い将来、皆さんもこういう文章の作成に関わることになると思うから…。

・・・亡くなった子どもたちの遺族は、深い愛情をもって大切に慈しみ育ててきた我が子を突如として理不尽にも奪われてしまったのである。事件発生の報に接し、子どもの無事を祈りつつ自宅や職場等から学校や病院に駆けつけ、小さな身体に凶行の傷跡が残された我が子の変わり果てた姿との対面を余儀なくされた、その悲しみ、その苦しみ、そしてその怒りは、深く、重く、余人の安易な想像を許すものではない。
 
遺族らの、年月が経とうとも決して癒されることのないその心情は、公判廷において切々と語られ、あるいは当裁判所に提出されたその意見に、そして、供述調書や遺族作成の書面に、その一端を窺うことができる。
 
ある遺族は事件当日子どもの体調が思わしくないように感じられたのに登校させてしまったと、またある遺族は家族の病気が子どもにもうつっていれば学校を欠席して殺害されることもなかったと、さらにある遺族は事件前夜子どもに傷んだものを食べさせて体調不良となって学校を欠席していれば殺害されることもなかったなどと、本来憎むべきは被告人とその理不尽な蛮行であるはずなのに、やりきれない思いから、現実にはあり得ないようなことにまで考えをめぐらせては自らをも責め続けているのである。
 
また、ある遺族は犯行現場にのこされた血痕を辿って我が子の苦しみを思い、またある遺族は自宅に引きこもりがちとなって我が子の苦痛を共感するため自らの身体を包丁で傷つけようとまでし、さらにある遺族は子どもの遺骨を肌身離さず持ち歩いているというのである。また、ある遺族は、我が子を殺した憎むべき被告人に対する本件公判の帰趨を見届けたいと思いつつも、被告人と同じ空間にいることに耐えられず、法廷に入ることができないでいるというのである。
 
これら遺族の心情は、その言葉として語られたところに接するだけでも、聞く人をして深い悲しみと本件犯行に対する怒りをかきたてずにはおかないが、遺族の心情は、決して言葉で語られたところに尽きるものではなく、それをはるかに超える深く重いものがあると推察される。これら遺族の心情に思いを致すとき、まことに痛ましくも哀れというほかなく、その心情を慰めるにはいかなる言葉も無力であることを痛感せざるを得ない。そして、このような悲痛な思いは、亡くなった子どもたちの遺族のみならず、傷つけられた子どもたちや教諭らの家族においてもまったく変わるところがないのである。
 
このような事態をもたらした被告人の責任が余りにも重大であることは、改めていうまでもない。亡くなった子どもたちの遺族をはじめ、殺人未遂の被害者、その家族、学校関係者らが、皆一様に被告人に対する極刑を強く望んでいるのは、余りにも当然のことといわなければならない。
 
・・・いうまでもなく、死刑は究極の刑罰であって、その適用には慎重の上にも慎重でなければならず、いささかでもその適用に躊躇を覚える事情があるときには、その適用を差し控えるのでなければならない。本件についても、当裁判所は、そのような姿勢で量刑に当たって考慮すべき事情について慎重に検討を尽くした。そして、その結果、我が国の法が最も重い刑罰として死刑を定めている以上、被告人に科すべき刑は死刑以外にはあり得ないとの結論に達したのである。
 
・・・なお、異例ではあるが、最後に当裁判所の所感を述べたい。附属池田小学校事件はまことに悲惨な事件である。・・・せめて、二度とこのような悲しい出来事が起きないよう、再発防止のための真剣な取組みが社会全体でなされることを願ってやまない。
 
(※読みやすいように適宜省略し、段落を変えた。)

裁判官は「世間知らず」とか「理屈っぽくて、人の気持ちが分からない人」とか言われることが多いように思う。だからこそ「市民の《常識的な感覚》を裁判に反映させましょう」ということで裁判員制度が導入されることになったはず。でも、こういう判決(あるいはメッセージ)を読むと、裁判官は別に冷たい訳でも、人の気持ちが分からない訳でもないんだろうなぁ…と。そもそも、「知り合いに裁判官がいます」という人は稀なわけで、裁判員制度は「裁判を身近にする」という以上に、「裁判官(あるいは法曹関係者)を身近にする」という意味の方が大きいのではないか?と思っています。

僕は一介の大学院生に過ぎませんが、多少なりとも法律に関わっている以上、(生意気かもしれませんが、)「裁判員制度の周知に協力すべきなんだろうなぁ〜」と考えています。まぁ、具体的に何かができるという訳でもありませんが。でもブログにリンクを貼るぐらいはできるぞ、と。

最高裁が「裁判員制度」を分かり易く紹介した映画の動画配信を始めました(映画『評議』)。全部で1時間ちょっとですが、是非、ご覧になって下さい。