慶應大学庭園移築事件(東地決平15・6・11)

学部ゼミに関連し(←12月5日のディベートで扱うらしい)、本件の才原評釈を読んだので(才原慶道[判批]知的財産法政策学研究3号217頁(2004年) ※pdfはこちら)、その「感想」というか「まとめ」。
事案を一読した時、本件は「《所有権vs.著作権》の衝突を扱った事案」に思えた。つまり、既存の建物を壊してロースクール用に新しい建物を建てたい債務者(=慶應大学側)と、「そんなことをされてはノグチの遺作が台無しになる!」と考える債権者(=ノグチ側)がいて、債権者の言い分が通れば、債務者側は建物の新築を諦めることになるのかと。「著作権ってそんなにゴリッパな強い権利でしたっけ?所有権者の自由や公共の利益を犠牲にしてまで、著作者の権利(同一性保持権)を守らにゃいかんのか?」と。んでもって、《所有権vs.著作権》(=条文に引き直して言うなら「民206vs.著20Ⅰ」)のバトルは著20Ⅱ②の土俵で決着を着けるんだろうなぁ〜と(←裁判所の決定もそんな風味..)。以上が僕の事案に対する第一印象。
しかし(僕が理解した範囲では)、才原評釈は「本件は《所有権vs.著作権》の問題じゃないだろう?!」と主張している模様。すなわち、本件で問題なのは「作品の《解体》」なのではなく「作品の《復元・再現》」であると。作品の所有権は債務者にあるので、作品の廃棄・破壊は自由になしうる、というのが通常の理解(但し、村井麻衣子先生が一部異論を唱えている模様)。債務者はノグチルームなんて再現する必要は(契約等の縛りが無い限り)サラサラない。それにもかかわらず(皮肉なことに)わざわざ気を使って、再現なんかしようとするから問題になるんだと。作品を「ノグチの作品」として「再現する/しない」というのは、所有権の埒外な訳で、それには許諾が必要でしょう、と。著20Ⅱ②は一定の必要性(=例えば、建物が老朽化したから補修するとか)に迫られた場面での《所有権vs.著作権》の話であって、その時は「著作(権)者に泣いてもらいましょう..」ということだから、今回のように再現する必要が(幸か不幸か)皆無な場面で著20Ⅱ②で利益衡量するのはオカシイでしょ?というのが、評釈の趣旨(たぶん..)。
確かに、例えばオブジェをデタラメに並べて、「はい、再現しました。これがノグチの作品ですっ!」と言われた日にゃ、「天国のノグチさんも浮かばれないだろうなぁ〜」という気はする。そもそも再現に当たって「忠実か否か」なんてナンセンスだし…。本件を考える場合に大切な視点は「じゃあ、新しい建物は諦めろってことですか?」という結果の重大性(=差止の許容)なのではなく、建物の新築自体は(再現さえしなきゃ)所有権者が自由になしうるのだから、問題は必要もないのに勝手に改修や再現をするな、と。壊すなら躊躇なく壊しちゃえ、と(あるいは両者で話し合って妥協点を探れ、と)。そういうことだと思う。
債務者側の配慮が裏目にでちゃった不幸な事例ですね…
 
(※この他の本件評釈としては、諏訪野大/法学研究77巻7号137頁、高林龍/判タ(臨増)1184号178頁など)