[赤毛のアン]の雑感

知財高判平18・9・20[赤毛のアン]を読んだ感想を脊髄反射的につらつらと…
(※判決文はこちら
【1:著作権との関係】
まず最初に、本件は小説『赤毛のアン』の著作権とは(大雑把に言ってしまえば)とりあえずは無関係な訴訟だと言ってよい(..と思う)。題号は著作物ではないし(←本件の審決でそういう認定がある)、被告(州政府)は著作権者ではない。そもそも(判決によれば)『赤毛のアン』の著作権はカナダでは1992年で保護期間が経過しているらしい*1。従って、本件は「他人の著作物を冒用した出願」ではない(※この点は以前のエントリ(こちら)で言及した[キューピー③事件]とは異なる。新聞記事を読んだ段階での早トチリでした..)。本件で7号該当性は「出願経緯の社会的妥当性・背信性」の視点からは検討されておらず、「国際信義に反するか否か」の視点から総合的に検討されている印象。「日加の友好関係」とか、「カナダで公的標章になってる」とか、「記念切手・記念金貨にも採用された」とか。著作権のような私権レベルはほとんど話題に上っていないし、「便乗目的」も認定されていない(←7号の場合、「名声にただ乗りする意図が明らか…」というような判示がなされることが多い)。一貫して「国際信義(=公益)」の「デカイ話」で処理している(オマケのように原告と遺族のやり取りについて言及がある程度..)。「国際信義の名の下で保護される文化遺産」(=それを決める考慮要素)の点は先例的価値があるように思える。加えて、本件は商標法4条1項19には乗りにくい事案にも思える。つまり19号は「他人の業務に係る商品または役務を表示するものとして…」となっており、「本の題号」は「商品役務の表示には当たらない」という判断がなされそう*2。だとすると、従来の代表的な裁判例(例えば東京高判平11・12・22[DOCERAM])より、より多くの「国際信義」の側面(=文化遺産性を肯定する要素)を列挙する必要に迫られたということか。
【2:題号の登録許容性】

(第三者が出願する場合)
・・・本件著作物のように世界的に著名で、大きな経済的な価値を有し、かつ、著作物としての評価や名声等を保護、維持することが国際信義上特に要請される場合には、当該著作物と何ら関係のない者が行った当該著作物の題号からなる商標の登録は、「公の秩序又は善良の風俗を害するおそれがある商標」に該当すると解することが相当である。

(著作物の関係者・関係団体が出願する場合)
他方、当該著作物の著作者が死亡して著作権が消滅した後も、その相続人ないし再相続人がその題号について、強い権利を行使することを認めることは、著作権を一定の期間に限って保護し、期間経過後は万人がこれを自由に享受することができる状態になるものと想定した著作権法の趣旨に反する。審決は、原告が、本件遺産相続人、被告州政府及びAGGLA等から承諾を得ていないことを、本件商標登録を無効とする理由として挙げているが、著作者の相続人やその関係団体などの承諾が必要であると解すべき法的根拠は、必ずしも明確ではない。著作者の相続人やその運営・管理する団体による著作物の題号の商標登録が、当該著作物、原作者又は主人公の価値、名声、評判を維持・管理するなどの公益に資する場合は格別、単に私的な利益を追求するものであれば、上記第三者の場合と同様、そのような商標登録が我が国の公序良俗に反するものとして制限されることも当然あり得るというべきである。

…以上のように判示されている。上の第三者出願については「まぁそうなんだろうなぁ..」という気がする。下の関係者出願についても概ね良いと思うけど*3、2点疑問が湧いたので書き留めておく(瑣末なものだけど..)。

    • 「関係者の承諾を得たところで第三者の出願瑕疵は治癒されない」という趣旨の判示がなされている。この点、東京高判平14・7・31[DARI]は次のように判示している。「・・・『ダリ』はサルバドール・ダリの著名な略称であったのであるから、遺族等の承諾を得ることなく本件商標を指定商品について登録することは、世界的に著名な死者の著名な略称の名声に便乗し、指定商品についての使用の独占をもたらすことになり、故人の名声、名誉を傷つけるおそれがあるばかりでなく、公正な取引秩序を乱し、ひいては国際信義に反するものとして、公の秩序又は善良の風俗を害するものといわざるを得ない」。…同じ7号の事案だが、[DARI]では「遺族の承諾があれば登録可能」と読める気がする。「死者の人名(=ダリ)は遺族の承諾を得れば登録します。本の題名(=赤毛のアン)は承諾をもらっても登録しません」という取り扱いの差異は平仄が取れていない印象がある。両者で相違点があるのは「人名」という点。人名は「生存中は8号・死亡後は7号」ということらしく、8号であれば承諾を得ることで登録が可能(←最近、最判が出た通り、査定時まで承諾が有効に存在していることが必要なんだろう..*4)。この点を考慮するなら「生きてたら承諾一本で登録できたのに、死んだら承諾をもらってもダメなんです」という大転換(?)に違和感を感じ、「人名は死亡後も承諾で登録オーケーなんです」という処理を考えているのかもしれない。[DARI]の射程は「人名に限定解釈する」ということか?もっとも、サルバドール・ダリくらい著名なら「私益マター(8号)」と「公益マター(7号)」の差は小さい気がする*5。そう考えると『DARI』だって遺族から承諾をもらったところで、やっぱり「登録は拒絶です。7号に反します」という処理もありえるのでは?
    • 関係者が「原作者又は主人公の価値、名声、評判を維持・管理するなどの公益に資する場合は格別、」と判示しているが、これはどうなのか?「使用の意思」はどう認めるのか。通常、登録時の「使用の意思」の判断は「出願人の内心は分からないし、将来的に使う意思があればいい。不都合は不使用取消審判で事後処理」という感じでスルーするはず。しかし、例えば「風俗店で『赤毛のアン』が使われると名声に傷が付くので、我々で商標を取っちゃいましょう」と遺族が考えた場合、遺族らが風俗店をやるつもりはないのだから「使用の意思」はカンタンに否定できそう(っていうか「使わない意思」で登録してもらおうとしてるんだろ?)。加えて、遺族がやりたいのは(要するに)ライセンスの許否に当たって、自分達の判断をかませること(=「時計のライセンスは信用のおけるこの会社にしましょう。文房具はこの会社にしましょう…」)であって、やっぱり遺族自身の(=本人の)「使用の意思」は認められないのではないか?それが公益に適うのだとしても「ライセンス目的で商標登録は受けられるのか?」という疑問。公益なら「遺族」じゃなくて「特許庁」で判断すればいい気がする。そもそも遺族や権利団体が(エラそうに)半永久的に「判断し続ける」のが果たして正当なのかどうか?(←著作権が切れてパブリックドメインになったような場合は特に疑問だ)。それは結局「永久に商標のライセンス料が入る」という「私益」なのではないか?(←裁判所もこの点については「慎重に検討」した模様..)

【3:汚染的表示(ポリューション)対策 ―残された課題?】
たぶん関係者側がやりたいのは「ポリューション対策」なんだろう。方法はとりあえず2つあって、「(1):他人が汚染分野の商標を取る前に自分達が先回りして取ってしまう」「(2):他人に汚染分野で取られてしまったら、無効審判を提起してツブしにかかる」の2つ。でも(1)は上にも書いた通り「使用の意思」が否定されそう。(2)は今回のように7号でツブすことは出来そうだが、相手方から「はぁ、分かりました。じゃあ商標を取らないで営業しますわぁ〜」と言われたらどうするのか?例えば未登録の『スナック・赤毛のアン』があって、これを遺族が止めたいとする。その場合、遺族が越えるべきハードルは、①商標を取りに行く。でも「使用の意思」が否定される、②「使用の意思」を持つ。でも遺族の営業であってもスナック営業は「国際信義」に反するので7号で拒絶される、③「商標がダメなら不競法だ!」と考える。でも書籍の題号は「商品等表示」にあたらない可能性があるから*6 、2条1項1号、2号で『スナック・赤毛のアン』を止めるのはムリかもしれない(これ以外にスナック側の先使用等も考えられる)。…さて、どうしましょうか?7号の公序が掛かるのは「登録」についてだけなのであって「使用」についてではない。「化体した信用を保護する」といった場合、商標法が考えるのは「商品」に化体した信用であって、「文芸作品」に化体した信用(や名声・評価)ではない。ポリューションを上手に叩くにはどうしたらいいのか…?
(以上)
・・・他にもツマラナイ疑問がいくつか湧いては消えていった気がしますが(←キャラクターの商品化の点とか..)、取り急ぎこんな感じです。

*1:戦時加算の点は判決からはチョット不明だが、たぶん日本でも2002年前後で切れてるんだろう..

*2:この点に関連し註6も参照のこと。

*3:「単に私的な利益を追求するものであれば…」の例として、夏目家が『夏目漱石小説集』を商標登録しようとして拒絶された事案(←工藤莞司先生がどっかに書いていたはずだが忘れた..)なんかが思い出される。

*4:最判平16・6・8[レナード・カムホート]

*5:「ダリに迷惑がかかる(=人格権)」以上に「世界中に迷惑がかかる(=国際信義)」ということ。

*6:cf:東京地判16・7・1、知財高判17・10・27[超時空要塞マクロス1審、同2審]は「映画の題名は,あくまでも著作物たる映画を特定するものであって,商品やその出所ないし放映・配給事業を行う営業主体を識別する表示として認識されるものではない」と判示し、映画のタイトルの「商品等表示」該当性を否定している。